あなたからはいつも、おひさまの匂いがしていた。
いつでも、いつまでも。
剣菱さんは、てんごくくんと呼んでくれた。
病室で話すのは、「あなた」の話と「オレ」の話だけ。
この部屋だけでは、"てんごくくん"でいられる。
プレーヤーでも、酒屋の息子でもなかった。
ただのてんごくくんだった。
お互いの話に、客観性はなかった。
あなたがどう想ったか、オレがどう感じたか。
それを主語にすることが、オレたちの唯一のルールだった。
「伝記が作り合えるくらい、お互いのことを知りたいね」
笑ったあなたが愛しかった。
頷くオレを可愛いと笑った。
てんごくくんは、あなたにとって可愛くみえるのだと知った。
あなたの話を聞いていると、世界は綺麗なものであると知った。
リンゴをむきながらあなたの世界に触れているとき、オレはとても幸せだった。
「うさぎさんにしてね。」
…全く、ワガママなひとだった。
あなたの考えが、いつしか自分の指針となっていた。
オレの中に、確実にあなたは根を張った。
自我よりも、もっと心の奥底にあなたが澱のように溜まる。
愛しかった。 恋しかった。
好きだ、とあなたはオレに言った。
そうなんですか。
オレは応えた。
大好き。あなたは言った。
そうなんですね。
オレは応えた。
いつもと変わらない、退屈な午後の会話。
あなたと共に、ゆるゆると時は過ぎていく。
ある日あなたは、「そろそろ退院するよ」
そう言って笑った。
よかったですね
オレは応えた。
「明日は、凪が迎えにくるから」
剣菱さんは言った。
凪さん。そっか、凪さん。
よかったですね。
オレはまた応えた。
病室からでて、街を歩く。
街に一歩出ると、その雑音に、心がすっと薄くなる。
さまざまな価値観で作り出された世界を
オレは猿野天国の顔を作って歩いた。
窓に、溶けてしまいそうな街灯の明かりが映る。
はやく帰らなくては。
オレは少しだけ、早足になった。
翌日も、オレは病院に寄った。
「剣菱さん」
いつもと同じように病室を開けるも、そこに彼の姿はなかった。
空っぽのベットが、しらじらと置かれている。
ああ、そうか。
剣菱さん、退院したんだっけ
そんなことを思い出す。
病室という狭い空間は
オレたちの秘密基地だった。
あなたとオレの思考しか存在しない世界。
2人で彩った、儚くも透明な美しい世界。
「そっか、もう、退院したんだ。」
今度は口に出して、言ってみた。
風が閉め忘れた窓のカーテンを、揺らす。
オレは窓辺に近づいた。
さようなら。
小さく呟いて、窓を閉じようと手を伸ばす。
刹那、風が強くオレの髪を揺らした。
その風に、唐突にオレは理解した。
風が 空が
雲が 光が
すべて あなたでできていることを。
ああ、そうか。
終わりじゃ、ないんだ。
オレは幸福で甘く疼く胸を押さえ、
静かに窓を閉じて、病室を出た。
”てんごくくん”
剣菱さんの声は、思い出そうとしなくても
自然に心で響いていた。
剣菱さんは、オレの中にいる。
そしてオレは永遠に
剣菱さんだけの”てんごくくん”なのだ。
この先も、どこにいても、それは変わらない。
剣菱さんのやわらかい声に寄り添いながら
ざわめきの少し収まった街を
オレはいちばん単純な想いだけ抱きしめて歩いた。
end